LOGINやきとり幸吉で翌日の約束をしたあと、若葉は家へ帰った。
築六十五年を超える平屋の市営住宅。建て付けの悪い玄関の扉を開けると、母である居内菜ノ葉(いうち・なのは)の姿が真っ先に目に入った。夜の仕事へ出る支度をしていた母は、若葉の顔を見るなり、三面鏡の前から声を飛ばしてきた。 「返事、まだもろてへんけど。あんた今月の生活費、どうなってるん」 玄関を上がり、床にいくつも転がるごみ袋をかき分けながら、部屋の奥へ進む。若葉はリュックの肩紐を握った。中では、求人誌が折れ曲がっている。 「あの……家事代行、契約を切られました。せやから、今月はいつもより……」 「はあ? 切られた? あんた、また何したん」 「お、お客さんの私物のことで……でも、私が壊したわけやなくて」 「そんなん今聞いてへん。お金の話をしとるの」 母は鼻を鳴らし、鏡に向き直った。口紅を乱雑に取り出し、唇に当てた途端、芯が折れる。母は舌打ちした。 「働いても、働いても、こんな安もんばっかり。ほんまに、どうかしとるわ」 若葉は、生活費についてそれ以上説明できなかった。 何と言えば、母の怒りを少しでも和らげられるだろう。 昨日、尾木が嘘を認めたことを話したところで、失った仕事は戻らない。 「あ、明日、焼き鳥屋さんで……一日だけ、手伝わせてもらえることになっとる」 「一日だけ? それでいくらになるん」 「まだ、そこまでは……」 「何でもええからお金入れて。あたしは今夜も働きに行くんやで」 若葉は足元のごみの山に目を落とし、「はい」とだけ答えた。 母は女手一つで若葉を育てるため、長いあいだ夜の仕事を続けている。以前、若葉も母に勧められ、同じように時給の高い夜の仕事に挑戦したことがある。しかし、客商売が苦手で続かなかった。母がそれを忘れているはずはない。 焼き鳥屋以外の仕事も探し続ける、と伝えようとしたとき、母が先に口を開いた。 「元旦那にはシゴかれるわ、娘はまともに働けもしないわ。あたしばっかり、いつまで――」 母は言いかけて、化粧の手をふっと止めた。 しばらく黙り込んだあと、手にしていたビューラーを突然、若葉めがけて投げつけた。 「きゃっ……!」 思わず小さな悲鳴が漏れる。ビューラーは若葉には当たらず、足元のごみ袋に当たって床に転がった。 「ぜんぶ、海老原のせいで……!」 母の怒鳴り声が、狭いワンルームにこだました。 何百、いや、何千回聞いた名前か分からない。 昔からその名前が出ると、何を言っても母に若葉の声は届かなくなる。若葉は口を閉じた。 ――海老原幸大(えびはら・こうだい)。 若葉が生まれる前、母と長く同棲し、入籍を目前にしながら、妊娠させた浮気相手とともに母の前から姿を消した男だ。母は、海老原幸大に捨てられたのだ。 若葉にとっては、血のつながりもなければ、会ったこともない男だ。ただ、子どものころ、押し入れの隅で古い写真を一枚だけ見つけて、それで海老原幸大の顔を知った。だからどう、という話ではない。顔を知ったからといって、やはり遠い人間にすぎなかった。 それでも海老原という名前は、母と若葉を暴力で苦しめた男――若葉の父であり、母の元夫である笹井一郎(ささい・いちろう)よりも、はるかに多く母が口にしてきた名前だった。生活費が足りないときも、仕事がうまくいかないときも。海老原幸大が母を捨ててさえいなければ、笹井一郎と結婚し、そして離婚することもなかったから、という理由だった。 海老原幸大の裏切りが、母の人生をどれほど狂わせたのか、若葉には分からない。分からないまま、母の抱える憎しみだけが、何度も若葉の心に叩きつけられてきた。 「……ごめんなさい」 小さく言うと、母は返事をせず、出勤の支度に戻った。 + + + 翌日、早朝の清掃を終えた若葉は、図書館で求人誌を読みながら時間を潰し、昼過ぎに開店前の幸吉へ向かった。 先日は客として座った席を、今日は自分が拭くために来た。昨日、幸子に教わった店の裏口を開ける前に、手のひらの汗をジーパンで拭う。 「若葉ちゃん、こんにちは。今日、よろしくね」 裏口から顔を覗かせると、幸子が迎えてくれた。腰はまだ痛むらしく、動くたびに片手を添えている。 「こ、こんにちは……! こ、こちらこそ、お願いします。あの、何をしたら……」 「そんなに慌てないの」 「……すみません」 幸子に案内された奥で上着を脱ぎ、借りたエプロンを身につける。髪を束ねて手を洗い、客席へ戻ると、幸子が布巾を差し出した。 「じゃあ、まずはテーブルを拭いて、椅子を整えてくれる? ゆっくりでいいから」 若葉は布巾でテーブルの隅々まで拭き、椅子を整えた。汚れの残っていた串入れも洗う。開店前の店内が、少しずつ客を迎える形になっていく。 だが、串入れを戻そうとして手が止まった。勝手に置く場所を決めて、叱られるのが怖い。 「あの……幸子さん、これ、どこに置いたらええですか」 「カウンターは一席に一個ずつ。テーブル席は、真ん中に一個ね。あら、このテーブル、床の隅まで綺麗にしてくれたの? 助かるわ」 若葉は布巾を畳んだ。家事代行では、いつも次の汚ればかりを探された。けれど今は、自分が綺麗にした場所をきちんと見てもらえている。 そのとき、幸子がふと思い出したように口を開いた。 「ああ、そうだ。そこにある携帯電話、鳴ったら教えてくれる? さっき整形外科に予約の電話をしたら、あとで折り返すって言われてね」 幸子のピンクの携帯電話が、客席から離れた棚に置いてあった。 「あ、はい。分かりました」 若葉は箸を揃えながら答えた。 + + + しばらくして、隣の時計修理マロンからルナがやって来た。幸子が無理をしていないか様子を見て、流しの脇に積まれた道具を運び始める。 「あっ、若葉さん。こんにちは。昨日、バアちゃんから聞いたよ。手伝いに来てくれたんだね」 「は、はい。こんにちは。今日だけ、お試しでお邪魔してます……」 「すごいや。店、綺麗になってる」 若葉は返事に困って、手元の箸を一本取り落とした。 「あっ、すみません。これ、洗い直します」 「はは、大丈夫。僕もよく落とす」 ルナは笑い、落ちた箸を受け取った。 幸子に呼ばれ、二人は仕込み台の前に立った。ルナが串打ちの準備を始める。若葉は洗い終えた容器を並べ、材料の数を確かめながら、何をどこに置くのかを尋ねた。そして、ルナが次に使うものを順に手渡していく。 「ねえ、若葉さん。串打ち、一本やってみる?」 唐突に言われ、若葉は思わずのけぞった。 「あっ。え、いいんですか……けど、素人やし、多分上手くできへん、私……」 ルナは「時計は直せても、僕もこれは素人だよ」と面白そうに笑った。 ルナは材料を並べ、串を通す手順をゆっくり見せてくれた。若葉も手を洗い、見よう見まねで鶏肉を串に刺していく。形が揃わず、できあがった一本を作業台に置くのが恥ずかしかった。 「上出来、上出来。最初はそんな感じ」 若葉は並んだ材料を見比べ、次の一本に手を伸ばした。今度も時間はかかったが、最初の一本よりまっすぐにできた。ルナは自分の手を動かしながら、若葉が使い終えた容器まで空けてくれる。 「その容器、こっちに置いてくれる? うん、そこ。ありがとう」 ルナの手を止めないよう、若葉は空いた容器を片づけた。時計を預けに来たときは、何もできずに助けを求めることしかできなかった。けれど今は、わずかでも彼の隣で同じ仕事をしている。そのことが、どこか不思議だった。 「若葉ちゃん、こっちもお願いできる?」 「はい、今行きます」 幸子に呼ばれ、思ったより大きな声が出た。母に渡せるほどの稼ぎになるかは分からない。それでも、開店準備が終わるころには、できることならもう一日ここへ来たいと思っていた。 そのとき、棚に置かれた幸子の携帯電話が鳴った。幸子はタレを煮詰めながら鍋をヘラでかき混ぜ、棚へ目をやる。 「あ、病院からだわ。ごめん、ルナ。ちょっと出てくれる? あとで折り返すって伝えて」 「分かった」 ちょうど串打ちを終えたルナが、手を洗ってから携帯電話を取った。 「はい、海老原です」 ――え? 若葉の手が止まった。 「すみません、祖母が今、手を離せなくて。後ほど折り返しますね」 母の口から幾度となく聞かされてきたその名前を、今、ルナが口にした。 いや、同じ姓の人ならほかにもいる。それに、これは幸子の電話だ。ルナの姓まで海老原だとは限らない。そう言い聞かせながら、若葉は電話を耳に当てるルナを見た。横を向いたその顔に、幼いころに見た古い写真が重なる。 写真の中で、母の隣で笑っていた、海老原幸大の横顔だ。 ――海老原幸大。ちゃう。海老原、月音……。 ルナは電話を切り、幸子に何かを伝えている。けれど若葉の耳には、もうその言葉が入ってこなかった。 ――この人は、お母さんを捨てた、海老原幸大の息子なんやろうか。 「若葉さん、ちょっと休憩する?」 やさしく笑いかけてきたルナに、胸の奥が詰まっていく。 ――いや。そんなはずあらへん。海老原幸大の息子なわけ、ない。やきとり幸吉で翌日の約束をしたあと、若葉は家へ帰った。 築六十五年を超える平屋の市営住宅。建て付けの悪い玄関の扉を開けると、母である居内菜ノ葉(いうち・なのは)の姿が真っ先に目に入った。夜の仕事へ出る支度をしていた母は、若葉の顔を見るなり、三面鏡の前から声を飛ばしてきた。「返事、まだもろてへんけど。あんた今月の生活費、どうなってるん」 玄関を上がり、床にいくつも転がるごみ袋をかき分けながら、部屋の奥へ進む。若葉はリュックの肩紐を握った。中では、求人誌が折れ曲がっている。「あの……家事代行、契約を切られました。せやから、今月はいつもより……」「はあ? 切られた? あんた、また何したん」「お、お客さんの私物のことで……でも、私が壊したわけやなくて」「そんなん今聞いてへん。お金の話をしとるの」 母は鼻を鳴らし、鏡に向き直った。口紅を乱雑に取り出し、唇に当てた途端、芯が折れる。母は舌打ちした。「働いても、働いても、こんな安もんばっかり。ほんまに、どうかしとるわ」 若葉は、生活費についてそれ以上説明できなかった。 何と言えば、母の怒りを少しでも和らげられるだろう。 昨日、尾木が嘘を認めたことを話したところで、失った仕事は戻らない。「あ、明日、焼き鳥屋さんで……一日だけ、手伝わせてもらえることになっとる」「一日だけ? それでいくらになるん」「まだ、そこまでは……」「何でもええからお金入れて。あたしは今夜も働きに行くんやで」 若葉は足元のごみの山に目を落とし、「はい」とだけ答えた。 母は女手一つで若葉を育てるため、長いあいだ夜の仕事を続けている。以前、若葉も母に勧められ、同じように時給の高い夜の仕事に挑戦したことがある。しかし、客商売が苦手で続かなかった。母がそれを忘れているはずはない。 焼き鳥屋以外の仕事も探し続ける、と伝えようとしたとき、母が先に口を開いた。「元旦那にはシゴかれるわ、娘はまともに働けもしないわ。あたしばっかり、いつまで――」 母は言いかけて、化粧の手をふっと止めた。 しばらく黙り込んだあと、手にしていたビューラーを突然、若葉めがけて投げつけた。「きゃっ……!」 思わず小さな悲鳴が漏れる。ビューラーは若葉には当たらず、足元のごみ袋に当たって床に転がった。「ぜんぶ、海老原のせいで……!」 母の怒鳴り声が、狭い
駅のトイレ清掃を終えた若葉は、更衣室でスマートフォンを開いた。 パウパウからの連絡だった。尾木からの苦情を受け、登録契約を終了するという。覚悟していたはずなのに、画面の文字を二度読み返した。 その下には、母からの短いメッセージもある。 ――今月の生活費は? 若葉は返事を打てなかった。朝の清掃だけでは、必要な額に届かない。 帰りに駅のラックから求人誌を三冊取り、何度も使い回して底が破れかけた紙袋に、さっと入れた。ページを開く前から、応募先に電話をかける自分を想像して胃が縮む。けれど探さなければ、母にも何も答えられない。 言葉の代わりに出てくるのはいつだって溜息ばかりだ。若葉は今日で三度目の溜息をついた。 昼過ぎ、若葉は時計修理マロンを訪ねた。昨夜預けた腕時計について、また話しに来ると店主のルナと約束していた。 ガラスのドアを開けると、ルナが作業台に向かっていた。片目にルーペを当て、小さな部品を見つめている。若葉が声をかける前に気づいた彼は、道具を置いて顔を上げた。「若葉さん。こんにちは」「こんにちは。お仕事中すみません……」「いや。うん、大丈夫。区切りのいいところだったから」 ルナは作業台の上を片づけ、昨日の腕時計をトレーごと取り出した。若葉はその手元を見る。「この時計には、まだ修理の手は入れてない。これからどう扱うかちゃんと決めないとね」「はい……何回も、お手間かけてしもうて……」「また話そうって言ったのは僕だよ」 ふっと笑ってきたルナと目が合わせられない。 腕時計のことを考えるには、尾木ともう一度連絡を取る必要がある。しかし、パウパウとの契約を切られた今、若葉と尾木はもう他人同士だ。個人的に連絡を取るべきかどうかさえ、自分では決められなかった。 だから今日はまず、パウパウとの契約が終わったことを話すつもりで来た。それなのに、『仕事を失いました』と切り出せない。ルナの顔を見るほど、どう伝えればいいのか分からなくなり、思考の糸がこんがらがっていく。「私の時計やないのに、ずっと持っとるわけにもいかんし……」「うん。昨日、あの人は『くれてやる』って言ってたけど、怒っていたときの言葉だからね。返してほしくなるかもしれない。それで考えたんだけど、あの人から連絡が来るまで、ひとまず店で預かろうと思うんだけど、それでも平気?」「えっ、
「……本当です」 若葉は、彼の顔を見られないまま答えた。「朝は別のアルバイトしとるんです。でも、それだけやと生活できんから、今の家事代行もやっていて。私、学歴もなくて、人間関係も苦手で、就職先、見つからなくて……だから今の仕事を切られたら、家賃も払えるかどうか……」 言葉にすると、ますます現実味が増していった。「あ、その、あの……すみません、そんなん聞かされてもって感じですね。色々迷惑かけて、本当申し訳ないです」「いや、僕が聞いたんだ。謝らないで」 彼が答えたとき、店の扉の前から声が聞こえた。「ルナ、ごめん、レバーお願いできるかー? 混んできて、さっちゃんがまた腰やっちゃいそうでーす」 男性の声に、彼が扉の方を振り向いた。「あぁ、すみません、今行きます!」 あの人、隣の焼き鳥屋の常連なんだ――苦笑しながらそう続けた彼に、若葉は瞬きを繰り返す。 ――ルナ。 愛称だろうか。若葉にとって、その名前は、これまで出会ったどの男性の名前とも違う、珍しい響きに感じた。「若葉さん。ひとまず時計は僕がここで預かるよ。修理するかどうかも含めて、改めてまた話しに来れる?」「あ……はい。ありがとうございます」 若葉は頭を下げた。そのとき、前掛けを締め直すルナを見て、ハッとする。そういえば、若葉がここにきたとき、彼は隣の焼き鳥屋から出てきたことを思い出した。焼き鳥屋で働いている途中で若葉を見つけて、わざわざ閉店後の時計修理屋を開けてくれたのだ。これ以上、仕事を邪魔するわけにはいかない。「私、帰ります」「待って」 ルナに手を掴まれ、若葉の肩が跳ねる。「ごめん、びっくりさせて。けど、すごく顔色が悪い」「……大丈夫です、帰れます」 そう言いながらも、ルナの手が離れると若葉の足元がふらついた。 尾木の件で摩耗したというのもあるが、ここのところ、ろくに食事もとれていなかった。自宅のテーブルに転がっていた、賞味期限のきれた昆布のおにぎりを、今朝一つ食べた。それが最後の食事だ。おにぎりは恐らく二人暮らしの母が、夜職の客にでももらったのだと思う。母は昆布が嫌いだ。だから、食べても昔から怒ってこないのだ。「少しだけでも休んでいったら? 隣の焼き鳥屋、僕のバアちゃんの店なんだ」 若葉は首を横に振る。財布にはほんの少しの現金しかない。給料日まであと数日、これでやり
――お客さんか? まさか。 今日も集客ゼロ・売上ゼロ。ここのところ続いていた帳簿のゼロを思い出し、ルナは疑い半分で口を開いた。「時計修理屋なら、僕だけど」 ルナがそう言うと、店の前にしゃがみ込んでいた女性が顔を上げた。肘と膝の辺りが汚れている。転んだのかもしれない。「い、今すぐ、お願いできませんか……! 壊してしまったんです!」 緊迫した声を上げ、近づいてきた両手の中に腕時計があった。彼女はそれを差し出そうとして、途中で手を止める。指が震えていた。「あー、えっと、うん。じゃ、まず見せて。店、開けるよ」 ルナは焼き鳥屋の前掛けを外し、隣の時計修理マロンの鍵を開けた。手を洗ってから作業灯を点ける。小さなトレーを差し出すと、彼女はそこに腕時計をそっと置いた。 作業用のマットの上へ移し、預かった時計を覗き込んだ。大きな文字盤の内側に、もう一つ、小さな文字盤がある。確かに不具合があるようで、その小さな方の針は動いていない。しかし、彼女が息を整えるのを待つ間に、長針はしっかりと時を刻んでいた。「これ、全部がダメになっているわけではないな。メインの時刻を示す針は動いてる。見る限り具合がわるいのは、インダイヤルだけみたいだな」「インダイヤル……?」「ああ、これね。この小さな文字盤のこと。例えばここに海外の時間を設定すると、日本にいながら、特定の国の時間がすぐ把握できる、ってやつ」 彼女は時計を覗き込み、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。「そこだけやったら、すぐ直せますか」「それはまだ分からない。中を見ないと、何が原因か言えないから」 ルナは時計を傷つけないよう台に伏せ、裏蓋の縁に工具を掛ける。手応えを確かめながら、少しずつ蓋を開いていった。 期待させてから落としたようで申し訳なかったが、少し確認しただけで結論を出すほうが無責任だ。恐らく一点物らしき意匠の時計だ。部品の手配が必要になるかもまだ分からない。「…………」 裏蓋が開き、ルナの手が僅かに止まった。 作業をしながら口を開く。彼女は、この腕時計を壊した、と言っていたが、どうして壊れたのだろうか。「一体どうしたの」 この腕時計に何が起きたのかを尋ねたつもりだった。「こっ、これ、私のやないんです。家事代行のお客さんので……掃除しとったら落として……もう、えらく怒らせてしもうて、
居内若葉(いうち・わかば)が朝五時から駅のトイレを磨いているのは、このアルバイトが好きだからではない。 中学二年生の途中から教室へ行けなくなった。卒業後も進学せず、履歴書の学歴欄には中学校の名前が一つあるだけ。人と話す仕事はうまく続かなかった。二十二歳になった今、若葉が確実にできると言えるのは、汚れを落とすことくらいだった。 ――うわ、こびりついとる。力入れな、落としきれんなぁこの汚れは……。 便器の状態を見ただけで、洗浄するために最適なブラシを選べるようになった。働き始めたころは吐き気がした臭いにも、今は顔をしかめなくなった。なにもかも、若葉にとっては不本意に身についた技術だった。 それでも、この仕事が来月もあるとは限らない。 早朝トイレ清掃だけでは暮らしていけず、家事代行サービスの派遣会社『パウパウ』に登録して、日中はそこのアルバイトをしていた。けれどパウパウにも、次に客から苦情が入れば登録を打ち切る、と先週告げられたばかりだ。 最後の個室を出た若葉は、手袋を外して時刻を確かめた。家事代行の現場へ向かう電車に遅れるわけにはいかない。 特に、今日の派遣先は、尾木健三(おぎ・けんぞう)の家だからだ。 尾木は七十五歳で、広い家に一人で暮らしている。若葉が担当したのはまだ数回だが、そのたびにパウパウへ苦情が入った。掃除の順番が気に入らない。物の置き方が違う。挨拶の声が小さい。 パウパウ側は若葉の話など、ほとんど聞かなかった。 ――尾木さんから、また連絡があったけど。いい加減にしてもらえます? 次やらかしたら、契約終了にさせてもらいますので。 電話口で言われた担当者の言葉を思い出す度、動悸が走る。 尾木に怒鳴られるのも怖い。だが、尾木からパウパウへ電話が一本入れば、仕事そのものがなくなる。そのほうがずっと怖かった。 + + + 玄関を開けた尾木は、若葉の顔を見るなり眉を寄せた。 「来たか、女。今日は前みたいな雑な仕事してくれるな」 「はい。気ぃつけます」 「はっ、相変わらずその訛り、なんとかならんのか。ここは横浜だぞ」 若葉は、すみません、とだけ呟き、靴を揃え、持参した道具を手に取った。 床を拭き、洗面台を磨く。尾木はときどき部屋へ入ってきて、若葉の手元を見た。何か言われるたびに返事をして、